生きる意味
モチベーションアップの法則

コラム:生きる意味。

生きる意味

「生きる意味って何だろう?」
ーー 人は、そんな根源的な問いの前に立つことがあります。

これまで、社会からのプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、自分自身を鼓舞して何とか頑張ってきた。でも、湧き上がってくる疑問「何のために?」・・。

そんな時、人はこの根源的な問いの前に立つのかもしれません。

もしくは、大切な何かを失った時、自分の存在意義が改めて問われているのかもしれません。

人間は、頑張ることの意味さえ実感できれば多少のことには耐えていける存在だといいます。でも、意味を実感できないまま頑張ることを強いられるとしら、それは辛い・・。

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生きる意味を問う、とは

正直、生きる意味への問いを持ちながら日々を過ごすのはとても苦しい。
この問いを持ったことのある人ならきっとわかるはずです。
答えを求め、何年もこの問いの前で時間を過ごす人も少なくはありません。

ここで言う「生きる」とは、単に生存するということではありません。ただ食べていくことができればそれでいいというわけではない。
生物的に「生きる」だけでなく、人間として「もっと生きたい」という意味で「生きる」という言葉を使います。

ただ生きることはできる。でもどこか虚しい、何かが足りない、そもそも何のために、そんな意味です。

自分をあざむいてはいけない

この問いの答えはきっと簡単には出ない。人間はともするとそれに耐え切れず「自己欺瞞(じこぎまん:自分で自分の心をあざむく)」に陥ってしまいます。

享楽的な道に走ったり、お金や権力や暴力に走ったり、諦めの態度を取るようになったり、何かに過度に依存したり・・。

このタイミングで怪しい宗教にはまる人も少なくありません。心の隙間を埋めてくれる何かがそこにあるような気がするからです。

自分は意味ある人生を送っていると思いたくても思えないから、そのような虚しさの感覚から逃げ出したくて、無意識的にその代わりの何かで埋め合わせようとしているのかもしれません。

「所詮人生は無意味だ」「結局〜に過ぎない」「人間所詮死ぬんだから頑張ったって意味がない」、そうして「生きる意味」や「人生自体」を否定しようとする人もいます。

もちろんそれでも構わないけれど、やっぱりできることなら何か「生きる意味」を見出して生きていきたいと、心の中では誰もが願っているはずです

「難題から逃げてはならない。それが、癖になると己れの人生に背を向ける事になる。」(孫正義)

「人生には選ばなければならない瞬間がある。自分自身の人生を充分に完全に徹底的に生きるか、社会が偽善から要求する偽の浅薄な堕落した人生をだらだらと続けるかの、どちらかを。」(オスカーワイルド)
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人生の質は解釈の質

「どうせ人間死ぬんだから」とか「所詮無意味だ」という意見は、登山しようとする人に「どうせ降りてくるんだから登ったって意味がないでしょう」と言うのと同じこと。
これは全ての物事の意味なくしてしまう発想です。

同じように結果だけで物事を考えるのなら、登山の目的はその山の頂上に立つことなので、「そんなに行きたいならヘリコプターで頂上まで行けばいいでしょ」ということにもなりますが、もちろんそれでは全く意味がない。
登山はその過程や挑戦を楽しむものだからです。
これは人生にも通じるところがあります。

ゴールや結果だけに焦点を絞ると「いま」はそこに到達するための退屈なものとなってしまいます。 それはもはや「冒険」ではなく、味気ない「作業」のようなものです。

「人生の質は解釈の質」という言葉があります。

どう解釈するか、どう意味づけするかで物事は大きく変わります。

生きる意味と向き合う登山家たち

登山と人生は似ています。
登山家たちの声は参考になるかもしれません。

「なぜ山に入る」と、繰り返し自分に問いかける。そのこと自体にとても重要なモノが潜んでいるように思う。それは、人はどう生きるべきか、自分とはいったい何者なんだろうかといった、誰しも考えなくてはならない人間の根本的命題に通じるもののように思う。」(志水 哲也)

「山へ登るのは何故かと問われても、あたかも絵を描き、鑑賞し、音楽を聴くのは何故かと問われるのと同様に、私は狼狽する。素朴な衝動的行為であろうか。人生を無為に終わらせたくないという、強い理念が根底をなしていることだけは明確に認識している。」(小山 義治)

「僕はこれまで歩みつづけてきた登山について、なぜ山へ登るのかとか、堅苦しいアルピニズムの理論めいたことは一度も考えたことがない。登山はすばらしい大自然の中の雄大な冒険であり、この冒険は人間として生きることの喜びと生きる価値を教えてくれるものだと思っている。心身を擦り減らすような闘いの中から、僕たちは人間の勇気、忍耐、不屈の精神力、強靭な肉体を鍛え上げ、自分自身の弱さに打ち勝つ貴重な体験を学びとっている。」(小西 政継)

「山に行っても行かなくても、いずれ人には必ず死が訪れる。8000メートル峰など、危険なところに行っていると命を無駄にしているように思われることも多いのだが、けっしてそうではない。むしろ、「死」と隣り合わせになることで「生」を感じ、生きていることへの感謝の気持ちが出てくるのだ。死を覚悟することによって、自分は何のために生きるのか、何に命を果たすのかを考えるようになる。人間にとって、長く生きたかどうかは関係ない。大切なのはどう生きるのかだ。」(栗城史多)

「登山はぼくにとって命であり、人生そのものである。今ぼくから登山をとったら何も残らず、からっぽの人間になってしまうに違いない。」(尾崎 隆)

生きる意味は自分だけのもの

ある有名な登山家(エベレストで死んだジョージ・マロリー)は、「なぜ山に登るのか」と問われた時、「そこに山があるから」と答えたという有名な話があります。
命をかけてまで登る理由は他人にはわからないかもしれません。でも、本人の中には確実にある。言葉にして説明できないかもしれないが本人はそこに「何か」を実感している。

そもそも自分にとっての「意味」を他人に説明する必要はありません。
「言葉にはできないけど、どうしようもなく〜」と思えばそれでいい。

きっと、おせっかいな他人が自分の都合で好き勝手なことを言ってくるでしょう。
でも彼らに合わせて無理に説明しようとすると大事なところが逃げていく。
むしろ、「どうしようもなく〜」「わけもなく〜」を大事にしたい。

登山家たちの生き方は極端かもしれないけれど、私たちにヒントを与えてくれます。
彼らは安全で努力も知恵も絞らなくて済む楽な道には何の意味も見いだせないでしょう。困難に挑戦することに、リスクを取るスリルに、今を生きることに、自分の限界を超えることに、達成する喜びに、”わけもなく”喜びを感じている。生きている感じを味わっている。

人間は、安全や安定を求めるが、それが達成されると退屈になる。
結局、損得を超えて”わけもなく”生きる感じのする方に進むしかありません。

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人生の意味とは何か?人は何のために生きるのか?

「人生の意味とは何か?」「人は何のために生きるのか?」この質問を向けられたアドラー心理学で有名なアルフレッド・アドラーは、「一般的な人生の意味はない」と答えたといいます。

そしてその後、「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と続けたのだそうです。

つまり、万人に共通するような人生の目的や生きる意味などはないということ。そして、それは人に与えられるものではなく自分自身で見出していくものだということです。

「生きる意味」を求めて悩む人は、無意識のうちに「すべての人間という存在にとっての生きる意味」を、つまり「普遍的で究極的な生きる意味」求めてしまっていることがあります。
しかしそういった生きる意味は存在しないというわけです。

ドイツの哲学者ニーチェも同じようなことを言っています。「なんのために私たちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか(略)...それがわかったら、それがわかったらね。」それに対してニーチェは答える。「この問いに答えるものはもはや誰もいない。この問いの答えは存在しない。世界と歴史の時間にはどんな意味も存在しない。それにもかかわらず君は生きねばならず、したがって「なんのために」ではなく「いかに」生きるかを自分自身で選ばなくてはならない。」

「人生それ自体が何かであるのではなく、人生は何かをする機会である」(ヘッベル/ドイツの詩人)

問うてはいけない。問われている。

ここで、「生きる意味」を考えていく上で大きなヒントを与えてくれるであろう心理学者ヴィクトール・フランクルの考え方を紹介します。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのははじめから誤っているのです。つまり、私たちは生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。

(それでも人生にイエスと言う/ヴィクトール・フランクル)

これまで私たちは「生きる意味は一体何なんだ?」という問いを発してきました。
でも、一体誰に(何に)この問いは向けられていたのでしょう?それは広く社会に対してかもしれませんし、これまで歩んできた人生に向けられていたのかもしれません。もしくは神様だったかもしれません。

いずれにしても、「誰か教えてくれ!」という感じです。

でも、実はそれはナンセンスであって、本当は私たちが問われているのだということです。

私たちは問いを発する者ではなく、問いに答える存在だった。

この場合、この問いを発しているのは「あなたの人生」や「あなたの生命」かもしれませんし「神さま」かもしれません。
いずれにしても「あなたが生きる意味は?」と私たちが問われているんだということです。

これはいわば「生きる意味」を逆質問されたようなものですが、「聞かれてもわからない。誰か答えてくれ!』とさらに誰かに質問してはいけない。
この質問に答えられるのはあなたしかいない。
自分自身で答えを出さなくてはいけない。

ちなみに、これにより「生きる意味」への問いが180度転換するわけですが、私はこれで大いに救われました。楽になった。「あぁそうか、生きる意味(人生の意味)は自分で見出していくものなんだな。」と妙に納得したことを覚えています。

被害者から主人公へ

「問う存在」から「答える存在」への転換は、大げさに言うと置かれた環境の被害者から人生の主人公への転換と言ってもいいかもしれません。

そこでは、「生きる意味」は「探す」「与えられる」ものから「見出す」ものへと変わります。

フランクルは、強制収容所の絶望的な状況の中でも生きる意味を見出し、人間らしさを失わない人たちがいることを発見しました。また、末期ガンの患者達が、病を受け入れ死ぬ寸前まで自分の人生を全うしていく姿を目の当たりにしました。

むしろ、抱えている困難の中にこそ「生きる意味」は潜んでいるものです。

「神よ、変えることの出来ない事柄については、それをそのまま受け入れる平静さを、 変えることの出来る事柄については、それを変える勇気を、 そして、この二つの違いを見定める叡智を、私にお与えください。」(ニーバーの祈り)
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意味を見出すヒント。三つの価値領域

意味を問われているのが自分自身だとしたら、それにどう答えていけばいいのでしょう?

どんな時も人生には「なすべきこと」「実現すべき意味」が必ずあって、発見され実現されるのを待っている、とフランクルは言います。
そして、それを探すための指標としてフランクルが提示するのが「三つの価値領域」です。
人生において実現すべき意味は「創造価値」「体験価値」「態度価値」の三つの領域に区分されるといいます。 

創造価値とは?
何か活動し創造することによって実現される価値のこと。具体的には、その人になされるのを待っている仕事、その人に創造されるのを待っている作品など。
自分には、なさねばならない「何か」がある。自分にはなされるのを待っている「何か」がある。そんな風な自覚を持つと、私たちは俄然、意欲が湧いてきます。「自分がやらねば」という気持ちになります。
もちろん、大切なのは一般的に価値があるか、どれだけ影響力があるかなどではありません。自分自身が意味を見出しているかどうかが重要です。 

体験価値とは?
何かを体験することによって実現される価値のこと。自然と触れ合う体験、芸術に心打たれる体験、人を愛する体験など。真善美の体験や人との出会いなどによって、何かを受け取ることによって実現される価値。
大自然の美しさに魅了される。人の温かみに触れる。そんな瞬間に誰かが「人生の意味」を訪ねてきたら、「この瞬間を味わうために生まれてきた」と答えるのではないでしょうか。
育児やペットやボランティアなど、自分を必要とする誰かを愛し喜んでもらう行為も、その人自身の生きる意欲へと繋がっていきます。

態度価値とは?
自分ではどうしようもない状況、変えることのできない運命に直面した時、その窮状に対して取る態度や姿勢によって実現される価値のこと。
誰でもその人が背負わなければならない過去や、変えられない運命を持っています。それに対してどんな態度を取るかはその人次第です。「なんで自分だけが」と悲観的になったり、攻撃的になったり、消極的になったりすることもできますし、運命を受け入れそこから前向きで勇気ある姿勢を取ることもできます。
たとえ、創造価値、体験価値の可能性が断たれようと、態度価値を失うことはありません。どんな絶望的な状況に置かれようとこれによって人生を意味あるものにすることができるわけです。

フランクルは、第二次世界大戦時にナチスドイツの占領下の強制収容所に収容された経験を持ち、そこでの経験から次のように語っています。

「収容所では未来における内面的な拠り所を失った人間が崩壊していった。」
「生きることが無意味に感じられるようになっていた二人の囚人のうち、一人は外国で自分の子供が彼を必要とし待っていくれていることに、もう一人は自身が取り組んできた完成すべき科学の著作が彼の使命だということに気づき、生きる意欲を再び蘇らせた。」

意味はどこから来るか

さて、説明が難しいところですが、フランクルのいう「意味」とは、私を超えた「向こう」から、これをなすべきだ、この意味を実現すべきだと呼び掛けてくるものだといいます。
私たちが問いかけられているのは、「あなたは何をしたいか」という自己実現を目指す問いではなく、「人生はあなたに何を求めているか」「何が(誰が)あなたを必要としているか」「あなたが実現すべき意味は何か」という意味発見への問いだということです。

「自分のために」を超えて、何かに必要とされる喜び、善意の中で人の役に立てる喜びほど、生きる意欲をかき立てるものはありません。
使命感を持つことほど精神的に充実することはありません。

外的な成功と内的な成功

すでに明らかだと思いますが、生きる意味を問う場合、それは明らかに内的な成功を目指しています。
外的にいくら成功しても、内的成功、つまり生きる意味を見出し精神の充足を得なければ苦しい日々が続くでしょう。
逆に外的には不遇でも、生きる意味を見出し内的成功を実現すれば、毎日は生き甲斐に溢れたものになるでしょう。

もっとも、内的な成功を果たせば、その人が望む形で外的にも整っていくものです。

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裸でも生きる

ここでもう一つ意味発見へのヒントとして、「マザーハウス」という会社を設立し奮闘している山口絵理子氏の著書よりその一部を紹介します。彼女は「途上国から世界に通用するブランドをつくる」という理念のもとアジア最貧国の一つであるバングラディッシュでバックの生産・販売を手がけている。

バングラデシュで起業しようと決意した時も、周りは反対した。起業なんてそんなに簡単じゃない。できるわけない。
ただ、そんな周りの声の中、私が拠り所にしたことは、たとえば尊敬する人の言葉でも、素晴らしい本でもなんでもなく自分自身だった。
バングラデシュで見てきた現実の中で自分の人生に最も影響を与えたものは、明日に向かって必死に生きる人たちの姿だった。
食べ物が十分でない、綺麗な服もない、家族もいない、約束された将来もない。そして生活はいつも政治により阻害され、綺麗な水を飲むにも何キロも歩かなければならない。
そんな人たちが毎日必死に生きていた。 ただただ生きるために、、生きていた。
そんな姿を毎日見ていたら、バングラデシュの人が自分に問いかけているような気がした。
「君はなんでそんなに幸せな環境にいるのに、やりたいことをやらないんだ?」って。
自分は一体何をしてきたんだ。他人と比べて一番になるなんてそんなちっぽけなことに全力を注ぎ、泣いたり笑ったり。こんな幸運な星の下に生まれておいて、周りを気にして自分ができることにも挑戦せず、したいことも我慢して、いろんな制約条件を自分自身の中だけで作り出し、自分の心の声から無意識に耳を背け、時間と共に流れていく。
他人にどう言われようが、他人にどう見られ評価されようが、たとえ裸になってでも自分が信じた道を歩く。
それがバングラデシュのみんなが教えてくれたことに対する私なりの答えだ。

(裸でも生きる/山口絵理子)

まとめ

少し長くなりましたが、現代は「意味」を見出しにくい上に我慢ばかり強いられる時代です。そんな中で我々はなんとか意味を見出そうともがいている存在です。
意味を見出せないのに我慢ばかり強いられるのはきっと辛いでしょう。でも諦めずに何とか自分なりの「生きる意味」を見出して力強く生きていきましょう。

「生きる意味」という大きなテーマについて書いてみましたが、何か少しでもヒントになれば嬉しいです。

最後にこの言葉を紹介して締めたいと思います。

「私たちに偉大なことはできません。偉大な愛で小さなことをするだけです。
人生とは歌です。歌いなさい」(マザー・テレサ)

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