十牛図〜悟りの境地に至るプロセス


(画像引用)Wikipedia

『十牛図(じゅうぎゅうず)とは、人が悟りの境地に至るまでの段階を10枚の絵で表したものです。
中国・宋時代の禅の入門書とされています。

自分探しの旅から始まって、本当の自分と出会い、それと一体となり、手放し……といった悟りに至る人の成熟プロセスがわかりやすく描かれています。

どれもシンプルな絵ですが、私たちに多くの示唆を与えてくれます。 

主な登場人物は、主人公と牛だけです。
ここでは「牛」は「本当の自分」の比喩として描かれています。
「牛」=「本当の自分」として理解して見てください。

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目次

十牛図

ここから「十牛図」の10枚の絵を紹介します。
最初は「自分探しを始める」ところからスタートします。

第一図「自分探しを始める」

尋牛(じんぎゅう) ── 若者が牛を探している。

つまり、若者は本当の自分とは何か?ということに疑問を抱くようになり、自分探しを始める。「牛」は「本当の自分」のことを表していると考えてください。

第二図「可能性の発見」

見跡(けんぜき) ── 若者は牛の足跡を見つける。

つまり、自分探しをする中で、この先に「本当の自分」があるかもしれないという可能性を感じる出来事や出会いに遭遇する。

第三図「本当の自分ってこんな感じ?」

見牛(けんぎゅう) ── やっと探し求めていた牛の尻尾を見つけた(まだ全身は見えない)。

つまり、本当の自分というものの一端が垣間見え、それを掴めそうな境地にまで達してきた。 

第四図「自己との格闘」

得牛(とくぎゅう) ── 牛を捕らえる。しかし、牛は暴れ逃げ出そうとする。

つまり、暴れ牛のような本当の自分を捕らえることに四苦八苦する。

第五図「自分と仲良しに」

牧牛(ぼくぎゅう) ── 牛がおとなしく手綱でつながれ、引かれている。

つまり、牛(本当の自分)というものを理解し、手なずけることができるようになった。

第六図「ありのままで良いんだ」

騎牛帰家(きぎゅうきか) ── 牛の背に乗って、笛を吹きながら楽しそうに家に帰る。

つまり、完全に自己一致した状態であり、ありのままの自分を素直に楽しめるようになった。

第七図「自分を手放す」

忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん) ── 家に帰ると、牛のことは忘れ、のんびり月を拝んでいる。

つまり、もはやどこか遠くに本当の自分を求めることはなく、ただあるがままの自分であることに満足している。 

第八図「空(くう)」

人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう) ── 人も牛も共に忘れる。そこにはもはや何も無いかのよう。

つまり、もはや私という主語も消え去っている。空(くう)や無(む)といった境地に至るということ。

第九図「無為自然」

返本還源(へんぽんかんげん) ── 川が流れ、木々には花が咲いている。自然そのものの姿。

つまり、あるがままの自然のあり様の素晴らしさに気づく。そして、人為的でなく、ただあるがままの自然のような姿に立ち返る。

第十図「あるがままの自分を世に差し出す」

入鄽垂手(にってんすいしゅ) ── かっぷくの良い穏やかそうな老人が徳利をぶら下げてふもとの里に現れ、若者と出会う。

つまり悟りを開いたかつての若者は、何事にも囚われないありのままの自分で新たな若者と出会い影響を与えていく。

(その若者は、この老人のあり方から、はたと自分が牛を見失っていたことに気づき自分探しを始める。今度はこの若者が第一図からスタートする)

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4つのステージ

これらの10枚の絵は、悟りの境地に至るまでの人の内的変化のプロセスを描いたものですが、大きく分けるとそこに4つのステージがあることに気づきます。

本当の自分を探し求め、自分を取り戻していく、そしてあれだけ求めていた自分というものを今度は手放していき、最後にはただあるがままで人と関わっていく ── そんなプロセスです。

「本当の自分」と「偽りの自分」

さて、第一図から第六図までは「牛」と「主人公」のやりとりが繰り返されるわけでが、ここに登場する「牛」は「本当の自分」の比喩ということでした。

では、主人公はどんな人物でしょうか?

牛が「本当の自分」なら、この人物は「偽りの自分」または「借り物の自分」といったことになるのでしょう。

社会に適応して生きるために自作り上げた「もう一人の自分」です。

主人公は、ふとしたことで「今の自分は本当の自分ではない」ということに気づいて自分探しを始めるわけです。

そして第六図までは、そんな「偽りの自分」が「本当の自分」を取り戻すプロセスなのです。

「私」を手放す

そして、第七図からはそれまでと全く別の流れに乗っていくことになります。
もはや「牛」は一切登場しません。

そこに存在するのは「私」を超えた世界。
あるがままの自由な境地
です。

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下界で交わる

十牛図の最後の一枚である第十図は、またさらに別のステージに立っていると考えられます。

第七図からは自分を超越した世界の住人となるようなもので、それはとても心地よいエネルギーに包まれたような心境になるはずです。

自己の課題を克服し、もはや悟りの境地に到達したかのようでもあります。

ただし、第九図まで自己完結的であり外に開いていく感じはあまりありません。

ところが第十図は一転して、山奥で悟りを開いた仙人がへ山里へ出てきて人々を救済していくかのようです。

救済するといっても、具体的には何ら特別な行動はしないかもしれません。
その存在に触れた人々が、自然と影響を受けていくのです。

言葉は悪いかもしれませんが、空気の澄んだ上界から暗い洞窟の中のような下界に降りてもその精神を失わず、ただあるがままでいることは容易ではありません。

それでも下界に降りていくという境地ですから、それが最終的な悟りと言えるのかもしれません。

確かに、世界的に有名な精神的指導者たちはこうした境地に達して多くの人々に影響を与えているように見えます。
自らを明け渡し、高い次元で人々に影響を与えているのです。

まとめ

「十牛図」とは、人が悟りの境地に至るまでの段階を10枚の絵で表したものでした。

全員が最終的な悟りの境地にまでは至るわけではありませんが、これらのプロセスを知ることは、私たち一人ひとりが内的成熟を進めていく上でとても参考になるものです。

このプロセスを歩んでいくことは、自分自身が成熟していく道のりでもあり、自分自身を解放していく道でもあります。

このプロセスを進めていくには長い年月がかかり、また良き師との出会いも必要になってくるでしょう。

長い道のりですが、自分のペースで一歩ずつ歩んでいきましょう。


カテゴリ モチベーション理論
 タグ  仏教

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