老荘思想とは?

老荘思想(ろうそうしそう)とは、中国の戦国時代に生まれた思想の一つ。
似通った考え方をしていた老子と荘子という人物の思想をひとまとめにしたものです。

その特徴は、いかに個人が自由に生きるかを考えた思想。

「〜すべき」といった常識に囚われたものではなく、自然のリズムに合わせて無理せず生きることこそ最上であるという生き方の哲学です。

時流に流されず、超然として心穏やかに自由に生きることを説いた老荘思想は、私たち現代人にも多くの示唆を与えてくれます。

特に、真面目過ぎて社会の中でどこか生きにくさを感じている人たちにとっては救いとなりうる思想と言えるでしょう。

俗に「上り坂の儒家、下り坂の老荘」などとも言われています。

その意味するところは、いわゆる成功を目指して登っていこうと思うなら儒家の思想が適していて、少し力を抜いて穏やかに生きていきたいと思うなら老荘の思想が合っている、というものです。

ここでは、そんな下り坂に適していると言われる老荘思想のエッセンスをできるだけわかりやすく紹介していきます。

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目次

苦しさや虚しさを生み出しているのは「私」?

夢や希望を持って主体的に行動することは一般的に良いことだとされています。
しかし、苦しさや虚しさはむしろそこから生まれます。

夢や希望が破れたり、競争の中で他人より劣っていると感じた時に感じるのが、苦しみや虚しさだからです。

そこで、老荘思想ではこう考えます。

夢や希望を抱く「私」を持たなければ、無用な苦しみや虚しさを感じなくて済むのではないか……。

「私(小我)」を捨て、一切をあるがままに受け入れ、天地自然の動きに身を任せて生きれば良いと考えるのです。

このことを、老子は「無為自然(むいしぜん)」と呼びます。

上善は水の如し

老子は、理想的なあり方として「水」をあげました。

柔らかくしなやかな水は、環境に合わせて自分の形を変え、争うことがありません。

また、生き物に多くの恵みを与え、最後には最も低い位置に落ち着きます(謙虚な姿勢)。
しかも、時には岩のように頑丈で重いものを動かす力も秘めています。

このことから、老子は「上善は、水の如し(理想は、水のように生きることである)」としたのです。 

荘子も同様のこととして、時間や空間に縛られず、何事にもとらわれない自在の境地に遊ぶことを最良のこととしました。 

”私”を明け渡す

「荘子」の中に、料理人が登場する非常に興味深いエピソードがあります。
次のような話です。

ある時、料理人庖丁(ほうてい)が、文恵君(ぶんけいくん)のために牛を解体した。 その手さばきはあまりにも見事で、まるで音楽を奏でているかのようだった。

文恵君はすっかり感心して、「技もここまで極まるものか」と賞賛の声をあげた。

それに対し庖丁は、「私はこれを技ではなく、道と考えています」と答え、こう続けた。 「はじめの頃は、目にうつるものは牛の姿ばかりでしたが、3年後には牛を目で見るのではなく心で見るようになりました。ただ心の作用だけが動くのです。そうして、ひたすら自然のすじめのままに刀を動かしていると、難所にぶつかることもなく容易に解体できます。そのせいで私の牛刀の刃は19年も使っているのに、砥石でといだように刃こぼれひとつありません」

これを聞いた文恵君は、「すばらしい!わたしは庖丁の話を聞いて処世の秘訣を得た」と感嘆した。

このエピソードの意味することろは、意識的な作為をせず、自然の法則に従うことこそ、最終的に辿り着くべき境地だということです。

「高度な技を見せてやろう」「この機会に名声を得よう」などといった作為を持つことは、むしろ害になるというわけです。

また、荘子にはこんなエピソードもあります。

ある日、孔子(こうし)は、魚も泳げない程の激しい水流の滝壺で泳いでいる男を見つけた。あわてて弟子たちが助けようとしたら、男はスイスイと泳いで上がって来ると鼻歌を歌っている。

驚いた孔子が「こんな激流を泳ぐには何か秘訣でもあるのか?」と聞くと、「秘訣なんぞありません。私はただ、渦巻いたらその水と共に沈み、水と共に浮かび上がり、水自身の法則に従って私自身をはさまない、それが秘訣と言えば秘訣ですかね。」と答えた。

二つのエピソードともに、無理に”私”を挟まずありのままやることがうまくやる秘訣だと言っています。

むしろ、”私”が物事を難しくしている原因かもしれないというわけです。

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為す無くして、為さざる無し

「無為」と「ほったらかし」や「適当」との違いについても書いておきます。

「無為」とは、「為す無くして、為さざる無し(私は何も余計なことはしない上で、全てやるべきことはなされている)と言われる境地です。

例えば、「無為自然で良いんだから、やるべきことをやらずに1日中テレビを見ていよう♪」と思ったとしたら、そこに「楽しよう」といった”私”が入っている時点で既に「無為」ではないわけです。

この「無為」は、ありのままを受け入れる消極性と、やるべきことをやるという積極性を双方兼ね備えています。

”私”という個人的な判断軸を手放し、もっと大きな”真理”のようなものの判断軸に沿って、なされるべきことを成していく。

そんな感じです。

万物斉同

もともと、「善悪」「美醜」「貧富」などといったものは、人間が勝手に作り出した概念であって、本来自然界には存在しない考え方です。

「善」も「悪」も、「美しい」も「醜い」も、人間の勝手な判断によって決めているに過ぎません(自然界にそんな判断はない)。

しかも、善悪は「善」があるから「悪」が存在しますし、「美しい」ものが存在するからこそ「醜い」ものも存在します。

つまり、これらは二つの対立する概念があって初めて存在するものであって、仮にどちらかが無ければもう一方も存在しなくなってしまうものです。

世の中に「善」が存在しなければ、何が「悪」だかわからないから「悪」も存在しないというわけです。

したがって、もっと大きな視点(例えば自然界)に立てば、あらゆる対立や差別は消滅し、全ては同一であるという考え方ができるわけです。

これが「万物斉同(ばんぶつせいどう)」です。

荘子は、善悪や生死といった人間の小さな視点で物事を考えるから苦しむのであって、もっと大きな視点に立てば、そんなことで苦しむ必要など無いのだ、と言いたいのでしょう。

タオ(Tao・道)

老子の言う「自然」は単なるネイチャーではなく、「タオ(道)」のことを指します。

「タオ(道)」とは、宇宙観を伴った万物の法則というイメージでしょうか。

老子や荘子は、ちっぽけな”私”ではなく、タオ(道)にしたがって生きよと説いたわけです。

まとめ

やや難解な「老子」や「荘子」の思想ですが、これら(老荘思想)を一言でまとめると次のようになるでしょう。

苦しみを生み出すちっぽけな私(小我)を手放し、もっと大きな存在「タオ(道)」に身を委ねて生きよう。
それこそが自由自在に生きる道だ。

最初に書いたように、この老荘思想は頑張ることに疲れ、どこか生きにくさを感じている人たちにとって救いとなる思想です。

「世の中うまくいかないことばかりなのはあなたが無理して頑張り過ぎているからだよ。もっと楽に生きることこそ正しい道だよ」と言ってくれているからです。

わかりやすい本が少ないのがネックですが、もっと知りたい人は、まず「マンガ 老荘の思想」などを読んで、ぜひご自身で研究してみてください。


カテゴリ モチベーション理論
 タグ  仏教・禅

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